河原城風土資産研究会
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古事記(ふることふみ)の倭(やまと)ごころ

―「古事記(ふることふみ)の倭(やまと)ごころ」お休みのお知らせ― 

2015年7月1日

みなさん、こんにちは~。
いつも「古事記(ふることふみ)の倭(やまと)ごころ」をご覧いただきありがとうございます!

ホームページのリニューアルのため、このページはしばらくお休みをいただきます。
リニューアルオープン後は、今までより一層楽しい内容で「河原町」の紹介をしていきたいとお思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

それでは みなさん、またお会いしましょう!!(*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

―ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ― その弐拾【神話の神々vol.6 天の石屋戸(あめのいわやど)】

2013年6月23日

みなさん、こんにちはー。本当に本当にお久しぶりですぅ―!!!ミ(≧u≦)彡

連日の真夏日に今年は空梅雨かと心配してましたが、やっと降りましたねー。しかし、降れば降ったで集中豪雨。それこそ、いい塩梅で降ってくれないものかと思うのでした。

さて神話の神々vol.6は天の石屋戸(あめのいわやど)の話です。

勝手に自分が勝ったと思いこんで、嬉しくてしょうがない建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は調子にのって暴れまわります。

田や畑の畔を壊し、神聖な宮殿には大便をまきちらし、皆を困らせました。姉神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は誓約(うけい)で弟が正しかったことで叱ることが出来ず須佐之男命をかばっていましたが、須佐之男命の悪さはエスカレートするばかり。馬の皮をはいで機織り(はたおり)の仕事をする小屋に投げ込んで、驚いた機織りの女の子は死んでしまいました。それを見た天照大御神は、弟を叱れない自分に我慢が出来なくなり、とうとう天の岩屋戸に入ったまま出てこなくなりました。

さあ大変、天上界と昼の世界を司る天照大御神が隠れてしまったので、世界中が真っ暗になってしまいました。これは一説には日食を意味するも、または一年で一番太陽の光が弱まる冬至の頃を意味しているもので、古代ではこのような森羅万象自然の現象に神の存在を重ね合わせて考え、特に天体に関する自然現象には畏敬の念を感じ、神の御技ととらえていました。また、石屋戸は古墳をイメージさせ、太陽・神天照大御神がそこに入り闇の世界が訪れ、再び現れるのは「死と復活・再生」の信仰を感じさせます。そして、天照大御神は機織りで神御衣(かむみそ=神に献る衣服)を織り、神田で稲を育てるなどのくだりからも穀物が毎年死に春に新たな生命を芽吹かせる「死と復活・再生」を繰り返すものへの信仰が見て取れます。

さて、神様たちは困りはてました。天照大御神を天の岩屋戸からお出ましいただくために天つ神を天の安河(あめのやすかわ)に集めて作戦会議を開きました。神様たちの中で一番頭のいい思兼神(おもいかねのかみ)が、みんなに指令を出します。

まずは常世の国の長鳴き鳥(ニワトリ)を集めて岩屋戸の前で鳴かせ、天の金山から採った鉄で伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと=作鏡連[かがみづくりのむらじ]の祖神)に鏡を作らせ、玉祖命(たまのおやのみこと=玉造部の祖神)に勾玉を作らせました。天児屋命(あめのこやねのみこと=中臣連[なかとみのむらじ]の祖神)と布刃玉命(ふとだまのみこと=忌部首[いんべのおびと]の祖神)には儀式(天の香具山の牡鹿の骨で占い、賢木[さかき]を根ごと掘り、それに勾玉や八咫鏡[やたのかがみ]をつけ捧げものとし、祝詞を唱える)を取り仕切らせ、一番力持ちの天手力男神(あめのたぢからおのかみ)には岩屋戸の扉に手をかけ隠れさせ、一番踊りの上手い天宇受賣命(あめのうずめのみこと=猿女君[さるめのきみ]の祖神)は岩屋戸の前に桶を逆さに伏せ、その上で乳房をかき出し、裳の紐を ほと(陰部)まで押し下げ、神がかりして踊ると八百万(やおよろず)の神々は一斉に笑いました。

なんだか外が騒がしいのを不思議に思って、天照大御神は外の神様に聞いてみました。すると、「あなたより素晴らしい神様が現れたので、みんなでお祭しているところです。」驚いた天照大御神は岩屋戸の扉を少しだけ開けて覗いてみました。楽しそうに踊る天宇受賣命や大笑いしている神様たちがいて、目の前には本当に美しい女神さまが立っていました。でもそれは鏡に映った自分の姿でした。その瞬間、天手力男神が扉をガッと開け天照大御神は外に引っ張り出され、二度とは入れないように扉を閉じ注連縄(しめなわ)を張りました。(これが神域との境界線としての注連縄の起源です)こうして闇に支配された世界は再び光(生命)を取り戻しました。

この神話こそが、宮廷で新嘗祭(にいなめさい=収穫祭にあたるもので、宮中祭祀の中で一番大きく大切なもの:ちなみに天皇が即位して初めての新嘗祭を大嘗祭[おおにえのまつり:だいじょうさい]という)の前日に行われる鎮魂祭儀の起源として語られています。旧暦の11月(現在の12月下旬)冬至の頃は一年で最も太陽の光が弱く、また日も短くなり太陽神・天照大御神の子孫である天皇の力も衰えると思われていました。そこで天皇の魂に活力を漲らせるために行う儀式として飛鳥時代・皇極(こうぎょく)天皇の御代(=中大兄皇子[なかのおおえのおうじ]らが宮中で蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷(そがのえみし)が自害する【乙巳の変[いっしのへん]・大化の改新】など政治的にも大事件・改革が起きた時代から始まったとされています。

さあこれで一安心と八百万の神たちは胸を撫で下ろしましたが、須佐之男命を許しておくわけにはいきません。天照大御神と神たちは須佐之男命にどんなお仕置きをするか相談しました。そして、須佐之男命の持っているたくさんの宝物を全部とりあげ(「…千位の置戸[ちくらのおきど=台の上に載せた たくさんの贖罪の品物]…)、ヒゲと手足の爪を切り(「…切り祓いしめて…[髭や爪を切ることは身体の一部を使ってする祓いの一種で古代の刑罰と思われる]」)、高天原(たかまのはら:たかまがはら)から地上に追放することにしました。

このお仕置きをどう見るかも いろいろと研究がされていることで、一般的には、再生の象徴である爪や髭を切るということは生命力を奪われて追放されるということで、天上界での乱暴狼藉がいかに罪深いものかを表しています。駒澤大学・古代史研究の瀧音 能之(たきおと よしゆき)氏は「古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎」の中で『贖罪の品物を差し出したうえに、髭と手足の爪を切られ、挙句は追放とは一度の罪に対し三度も罰を与えられているのはナゼか?…大祓詞(おおはらえことば:、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つ)の影響ではないか。…延喜式の中に残る現在の大祓詞の中に出てくる罪の分類は“天つ罪”と“国つ罪”の二つ分けられ、その罪に対する罰則も決められている。… 須佐之男命の犯した罪はまさに天つ罪にあたる。……(中略)……また、生命力を奪われて追放されるということは、つまり死者として追放されたことになる。奇妙な感じだが、もともと母神・伊邪那美命(いざなみのみこと)に会いに黄泉の国に行きたいと泣いていたのだから、ふさわしい結末といえる。……しかし、大祓詞にあるように千位の置戸で贖罪を果たし禊は終わるはずなのに死者として追放されるとは、千位の置戸がまったく効果がないとも取られてしまう。……(結論として)記・紀神話の中での須佐之男命の役割。須佐之男命は高天原から追放され黄泉の国の支配者にならなければいけないという時代背景があったのではないか。…(後略)』このように読み解けば、とても自然に、そして必然的に須佐之男命への厳しい処分が理解できそうですよね。(*U_U*)

さあ、いよいよ神話の舞台は天上界から地上へと移ります。どんなお話しが待っているのか、続きは、次回「八岐大蛇(やまたのをろち)」でお話します。それではまた お会いしましょう~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

その拾九「八上比売の謎・その2『御子神は二人いた!!?………かもしれない』篇 vol.3」

2013年1月22日

みなさん、こんにちはー。 ついこの前お正月だったのに、成人式も過ぎて、1月もそろそろ月末です。ホントに月日の過ぎるのは早いものです。1は行く、2月は逃げる、3月は去る、と「あっ」という間に過ぎるので、 “どんより”しがちな季節ですが、みなさん年度末に向けて張りきっていきましょう~!!

さて「八上比売(やかみひめ)の謎・その2『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇」最終回です。

阿陀加夜奴志多岐喜比売命(あだかやぬしたきぎひめのみこと)とはどのような女神さまだったのか?

米子市の阿陀萱(あだかや)神社のほかに、島根県の東出雲町の阿太加夜(あだかや)神社や多伎町の多伎(たき)神社、多伎藝(たきぎ:たきげ)神社なども阿陀加夜奴志多岐喜比売命をお祀りする神社で、由緒書きにも記載されています。ここに挙げた神社が鎮座する場所は、古代出雲の勢力下にあり大国主命が国造りをして活躍された地域と重なります。そして、ちょうど中心地点に御井神社があるのも偶然ではないのでしょう。

(「山陰の神々・古社を訪ねて」より)

 

出雲国風土記(いずものくにふどき)の中で、神門(かむど)郡・多伎郷の地名由来として「…大己貴命(おおなむちのみこと)の御子、阿陀加夜奴志多岐喜比売命がここにいらっしゃる。だから、ここを多吉(たき)という…」。そして、多   (阿太加夜神社)             支枳(たきぎ)社(現在の多伎藝神社)については、「…阿陀加夜奴志多岐喜比売命は、父神・大己貴命に会うために嵐を鎮めた後、お伴の者たちの手を引いて真一文字に大社の稲佐の浜へ急いだ…」という手引ヶ浦の浜の神話などなど。

(阿太加夜神社の由緒書き)

出雲歴史博物館の学芸員・森田喜久男氏は「山陰の神々・古社を訪ねて」の阿太加夜神社の解説のなかので次のようにおっしゃっています。「出雲郷と書いて“あだかや”と読むのは何故か?…(中略)中世出雲の政治の中心である国衙(こくが)領があり、宗教の中心である杵築(きずき)大社の神事を行う重要な役目の地であり、政治的・経済的基盤ではなかったか。……(中略)だから、この地が出雲国の政治の中心・宗教の中心を支える場所として“出雲郷(あだかや)”と命名されるに至ったのでは……(後略)」

このような背景を考えると、阿陀加夜奴志多岐喜比売命は、父神・所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ:大国主命)の古代出雲王国の基盤、いわゆる国造りのお手伝いをしたと考えられている女神様だということが分かります。広域にわたり鎮座し信仰を集め、それぞれの鎮座地に残る伝承や海を渡る神話や、一説によると、古代朝鮮半島南部の伽耶国(かやこく)の主・姫神様が渡ってこられ、その女神さまこそが阿陀加夜奴志多岐喜比売命だという伝承のあることから考えると、航海や物流などの経済発展の振興にも活躍された繁栄の女神さまだったのかもしれません。

一方、御井神(みいのかみ)は井戸の神様として民衆からの厚い信仰を集めていました。稲や農作物の実りや、それ以上に生活に生命に欠かすことの出来ない水。その水利を司る神として御井神は古代から人々の暮らしに深く関わり合っていました。

生井(いくい)           福井(さくい)       綱長井(つながい)

その上、宮中でもお祀りされていました。皇居の地を守護する神、すなわち座摩神(いかすりのかみ:ざましん)の五神のなかに、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)が配されています。ちなみに、あと二神は波比岐神(はいきのかみ)、阿須波神(あすわのかみ)です。生井・福井・綱長井とは木俣神が産湯につかった神聖な井戸のことです。斐川町の御井神社の近くに今もちゃんとお祀りされ守られています。

この御井神社の社名由来は下記の由緒のとおり、三つの井戸で産湯をつかった木俣神(御井神)をお祀りしたからだとあります。では、その井戸は誰が掘ったのでしょう?このことについて一昨年、八頭町(河原町の隣の町で、同じく古代八上郡)出身の神話研究家・大江幸久(おおえ ゆきひさ)さんとお話しする機会がありました。偶然にも大江さんも、「木俣神と御井神は別々の神様説」を唱えていらっしゃって、でもやっぱり私と同じで確信となる裏付けを探していたそうで、斐川町の話をしたら大江さんも私に負けず興奮!!大江さんと私が『二人説』に辿りついた経緯は違いますが、お互いの考えを言い合って穴埋め作業をしていくうちに「もう間違いない!!」「やっとこの話を真剣に話し合える人を見つけた!!」と、周りに他の人がたくさんいるのもそっちのけで、2人だけで 大盛り上がり大会でした。そして、三つの井戸で産湯をつかったから御井神ではなく、やはり御井神がその井戸を掘ったと考えるのが自然だし、その後の御井神と木俣神の活躍の場と信仰の広がりを古事記以外の各地の風土記で読み解けば、また一つ裏付けになるような神話・伝承が浮かんでくる!!そんな話を時間を忘れて2人で力説していました。

御井神をお祀りする神社の分布を調べると、斐川町の御井神社以外はほとんどが因幡より東で、但馬(兵庫県北部)、播磨(兵庫県南部)、丹波(京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北東部周辺)、河内(大阪)、山城(京都南部)、越(北陸・東北の一部)、信濃(長野県)、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県西部)、三河(愛知県東部)、遠江(静岡県大井川以西)に多く、研究者のなかには御井神は出雲系の神ではなく、天孫系の物部氏一族の起源を越の国として、その氏神だったのではないか、または皇祖神・天孫士族の遠祖ではないかというような説もあります。

御井神社 兵庫県養父市大屋町
御井神社 兵庫県豊岡市日高町
耳井神社 兵庫県豊岡市
美登内神社 兵庫県氷上郡春日町
井ノ大神社 兵庫県加古川市八幡町
五百井神社 滋賀県栗東市
大井神社 京都府亀岡市大井町
駒形大重神社 奈良県御所市
御井神社 奈良県宇陀市
御井神社 岐阜県各務原市
御井神社 岐阜県養老郡養老町金屋
気多若宮神社 岐阜県飛騨市
津田神社 三重県気多町
高座結御子神社 境内 御井社 愛知県名古屋市熱田区高蔵町
須倍神社 外宮 静岡県浜松市北区都田町
神目神社 石川県鳳珠郡能登町
石井神社 新潟県三島郡出雲崎町
子檀嶺神社里社・中社・奥社 長野県小県郡青木村

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(御井神をお祀りする主な神社)

確かに、樹木と井戸は二つでセットのような考え方は通説です。だから、聖井のそばには必ず聖樹が生えていて、御井神と木俣神は同一神の考え方もおかしくはないんですが、どちらが先だったのか、つまり【樹木と井戸はセットだから御井神と木俣神は同一神説】が出来たのか、【御井神と木俣神が同一神だから樹木と井戸をセットにした】のか。これは鶏と卵くらい難しい問題です(笑)結局は解らないというのが本当でしょう。この手の疑問や矛盾は記紀の中にたくさんあって、古代に行って見てきた人がいないので、出来る限りの信憑性のある文献や地域の情報などを総動員して、状況を分析しながら推論を立てていくしかないのです。そして、その考え方でみると、各地の御井神の鎮座地には御井郡・三井郡、御井郷・三井郷があり、御井氏・三井氏の発祥地と重なり、御井神と木俣神は別々の働きをしていたことが分かります。

八岐大蛇(やまたのおろち)や大国主命の沼河比売(ぬなかわひめ)への妻問いなどに見られるように、古代の出雲と北陸との地域間交流はあったわけですから、御子神がそちらを拠点に活躍しても不思議なことではないのかもしれませんよね。そして、これも言いかえれば、阿陀加夜奴志多岐喜比売命と同様に父神・大国主命の国造りの手伝いをしたといえるのかもしれません。

以上のようなことから導きだした「かもしれない」の推論を、神話風にまとめてみると……『八上比売は大穴遅神との間の御子・御井神(みいのかみ)を因幡の八上(やかみ)の郷で挙げられ、大国主命に出雲に呼び寄せられて、大国主命の庇護のもと結びの郷で木俣神(このまたのかみ)を挙げられた。しばらくは出雲の地で過ごしたが、木俣神(木俣神が何の象徴だったのかは今後の課題)を国造りの手伝いをさせるため父神のもとに残し、御井神を伴い因幡に帰った。その後、御井神は水利の神として因幡より東で活躍し民衆を助け、八上比売は一族を束ね因幡の地を統治した。』と、このような御子神神話となりました。

いろいろと話してきましたが、駆け出し郷土史研究家の「想像力を逞しくした推論」なので、どうか大目に見てください。

御子神についても八上比売についてもは、まだまだ調査途中ですので、これからも謎を追って調査していこうと思っています。 また、いずれ機会がありましたら、報告させて頂きたいと思っています。

最後に、今回のシンポジウムで印象的に心に残ったのは、藤岡大拙(ふじおか だいせつ)先生がおっしゃっていた、「…しかし、古事記にたった一行の記述があっただけの木俣神(御井神)が民衆に求められて神話が生まれ、信仰が生まれ、神社が出来、温泉街が出来、たった一行からこんなにもたくさんの地域性が出来た。これこそが本当に民間パワーだ。だから、あんまり細かいことをほじくり返さずに、神話のちょっとした矛盾も大めに見て、広い心で受け入れてください。(笑顔)」心優しく おおらかな藤岡先生のこの一言に納得!!

最後まで読んでいただいてて、ありがとうございました。

それではまた お会いしましょう~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

 

 

 

 

その拾八「八上比売の謎・その2『御子神は二人いた!!?………かもしれない』篇 vol.2」

2013年1月5日

みなさん、明けまして おめでとうございます!!                                   今年もよろしく お願いいたします。

今年のお正月は6年ぶりに雪もなく、初日の出が拝めたし、幸先のいいスタートでした。元旦は正午で閉館したので、そのあとスタッフのみんなで恒例の初詣に氏神さんの久多美(くたみ)神社(御祭神:伊邪那岐命[いざなぎのみこと])と賣沼(めぬま)神社(御祭神:八上比売命[やかみひめのみこと])に行ってきました。雪景色の神社もいいですけど、陽射しが暖かい穏やかな神社もまた癒されますね~(*U_U*)

みなさんは いかがお過ごしでしたか?

さて「八上比売(やかみひめ)の謎・その2『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇」のつづきです。

裏付けのような伝承がないものか探していただけに「出雲の源郷 斐川の地名散歩」と出逢い、斐川町の知人にも話を聞き、実巽(じっそん)神社にも足を運び地元の方とも話をした時には、ますますこの伝承の重要性を感じて一人で興奮していました!!そして以前からの疑問や違和感が「スゥーッ」と消えていったと同時に、もう一つの考えも自分なりに納得のいく説明が出来そうな気がしてきてました。

 

 

 

 

(御井神社)                     (安産祈願の絵馬)

木俣神(このまたのかみ)は別名・御井神(みいのかみ)とも呼ばれ、斐川町の御井神社の祭神として祀られ安産の信仰を集めています。二つの名前を持ち、同一神とされているこの神は、本当に同一神なのか!?という 疑問は、一部の人たちでは囁かれていましたし、違う神様だと言っている人たちもいましたが、いずれもただの推測や「直感的にそう思う」だけで、何か根拠となるものがあるわけではなかったんです。ですから、この疑問は自分で調べて解決するしかないなと思っていました。そんな時に、3、4年くらい前でしょうか、県立博物館の主任学芸員の石田敏紀さんが、八上の采女(うねめ)についての研究をなさっている時に面白い仮説を立てていらっしゃっるのを聞いて、そのことがとても印象的に記憶に残っていました。ちなみに、采女というのは5世紀頃から天皇への服属の証として有力地方豪族の娘が貢進されたと考えられていて、主に天皇の身の回りの世話をしていた宮廷女官です。7世紀中頃以降、律令制度による政治体制が整備される中で采女制度も整えられ、因幡では八上の采女のほか、高草の采女・伊福吉部(いほきべ)の采女などが中央で活躍しました。(鳥取県史ブックレット8『古代因幡の豪族と采女』(2011年)石田 敏紀 著より)

石田氏は「この八上の采女は、いろいろな記録の文書や当時の政治的時代背景を考えると、同時代にどうしても二人いたとしか考えられない。」 と、おっしゃていました。……『出雲の源郷 斐川の地名散歩』を読んだ時、そのことを急に思い出して、木俣神も二人以上いたと考えると、全ての疑問がスッキリと腑に落ちたんです。

さらには、出雲国風土記(いずものくにふどき)では大穴牟遅命(おおなむちのみこと)の御子神として阿陀加夜奴志多岐喜比売命(あだかやぬしたきぎひめ)という女神が登場してきます。まあ、大国主命は奥さんも沢山いたし、御子神においては古事記では180人、日本書紀では181人もいたという説もあるので他に御子神がいても驚きませんが、 注目したいのは、米子市橋本の阿陀萱(あだかや)神社の由緒書きです。 『多岐喜比賣命は大巳貴命(おおなむちのみこと)と八上比売命の御子なり。出雲の国 直江の里にて誕生あり。八上比売 因幡に帰らんとて共に歩き給うときに多岐喜比賣命 榎原郷橋本邑の里、榎の股に指挟みて長く置き給ひし時に 吾は木俣の神なりと申給ひて 宝石山に鎮座し給へり…』とあります。

これには驚きました。阿陀加夜奴志多岐喜比売命は自分が木俣神だと宣言しているんです。御井神に続く3つめの神名です。

 

(阿陀萱神社の由緒書き)

(阿陀萱神社)                       (拝殿額)

父神の大国主命は多くの名前を持つ神です。古事記では5つ、大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・葦原色許男命(あしはらしこおのみこと)・宇都志国玉命(うつしくにたまのみこと)・八干矛命(やちほこのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)、日本書紀では7つ、大己貴神(おおなむちのかみ)・葦原醜男神(あしはらしこおのかみ)・顕国玉神(うつしくにたまのかみ)・八干戈神(やちほこのかみ)・大国玉神(おおくにたまのかみ)・大物主神(おおものぬしのかみ)・大国主神(おおくにぬしのかみ)、出雲風土記では所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と呼ばれています。そして、童謡に歌われる♪大黒様♪は室町時代以降の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時に、仏教の「大黒天(だいこくてん)(マハーカーラ:シヴァ神の化身)」と音が同じ「大国」の信仰が習合されるようになりました。

これだけ多くの名前をもつ大国主命は、単独の神様ではなく沢山の神さまの集合体ではないかといわれています。また、母神の八上比売ですが、私の推察ではやはり因幡で信仰された女神たちや、時代ごとの豪族・長者の姫たちの総称だったのではないかとも思えます。

そんな親神の御子神ですから、同一神と言われながらも別々の神様だったのではないか!!という仮説を立てると本当にスッキリと腑に落ちたんです。

では、阿陀加夜奴志多岐喜比売命とはどのような女神さまだったのか!?

次回、『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇」最終回に続く。

それではまた お会いしましょう~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

 

 

その拾七「八上比売の謎・その2『御子神は二人いた!!?………かもしれない』篇」

2012年12月29日

みなさん、こんにちはー!!。今年のクリスマスはいかがお過ごしでしたか? クリスマス寒波で全国的にこの冬一番の寒さだったとか(まだ続いてますが)…… ホワイト・クリスマスだったところも多かったようですね~(*U_U*)

さて神話の神々vol.6は天の石屋戸(あめのいわやど)の話にいきたいところですが、先日のシンポジウムでの研究報告の掲載をお約束したので今回は「八上比売(やかみひめ)の謎・その2『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇」を報告しま~す。

今回のシンポジウムは「古事記と民間伝承を通して、古代因幡やそこに暮らした民衆との関わりについて考えてみよう!!」ということですが、やはり因幡といえば「稲羽の素兔」。7月に続いて地元河原町の「八上比売の謎・その2」ということで、今回は御子神についての調査報告です。

ところで みなさん、八上比売と大国主命の間に生まれた御子の名前をご存知ですか?『木俣神(このまたのかみ)またの名を、御井神(みいのかみ)』といい、古事記にも記述があります。八上比売の記述もほんの数行ですが、この御子についても古事記に記されているのはたったの1行ほどです。神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)との御子・事代主神(ことしろぬしのかみ)や、沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)との御子・建御名方神(たけみなかたのかみ)などは国譲りで活躍するので知られていますが、木俣神はあまり知られていませんし、知っていても【木の股にさし挟んで置かれたから木俣神と名付けた】と、神名由来からしてちょっと可哀そうな印象を受けてしまいます。もっと ひどいのは八上比売で、正妻の須世理毘売(すせりびめ)を畏れて、【御子を木の股にさし挟んで因幡に帰ってしまったヒドイ母親】という悪いイメージが出来てしまっています。本当にそうでしょうか!? 地元では古事記とは別の神話伝承があります。

ここで八上比売像のついて、もう一度考えてみましょう。正妻を畏れて……の【ヒドイ母親】または【気弱で可哀そうなお姫様】という部分がやけに前面に出ていますが、大国主命との出会いを思い出してください。意地悪な八十神(やそがみ)達の求婚に対して自らこう言います、「……ここに八上比売、八十神に答へて曰く、『吾は汝等(いましたち)の言は聞かじ。大穴遅神(おおなむちのかみ)に嫁がむ』といひき。(私はあなた達の言うことはききません。私は大穴遅神と結婚します。)」と、自分の意思で八十神たちの申し出をきっぱりと断り、大国主命を選んでいます。また、はるばる出雲の地まで旅をして御子を生むなど、活動的ではっきりと自己主張できる自立した女性像が浮かんできます。

そして、八上比売のふるさと河原町やその周辺に伝わる、古事記とは違う神話伝承とは、霊力をもった巫女・豪族の娘・勇猛果敢に鬼退治をし、一族を束ね因幡を統治した烈女。かと思うと、御子神を愛情深く育てた母神としての伝承もあり、多面性を持った謎めいた女神像だったようです。 ここで素朴な疑問として、巫女や烈女伝説は古事記からも何となく想像できるんですが、古事記とは正反対の子育て伝承が伝わるのはどういうことでしょうか?

地元の伝承で犬山(いぬやま)神社(現:鳥取市用瀬町)の由緒書きにはこうあるそうです。「八上比売は八上の地で男御子を挙げられ、この地(この地というのは河原町の現在黒木神社[祭神:大巳貴神、御井神]のある場所の辺りです)の朽ちた桜の木の根もとの穴に置かれたそうです。それを見た地元の民が、畏れ多い事として御子神を大切に育て、その後 八上比売とともにお祀りしたということです。」しかも、子育て伝承は河原町だけではなく、もうひとつのゆかりの地、出雲市斐川町にも愛情深く御子神を育てた母神伝承がつたわります。最初は、八上の人たちの比売を思う気持ちという      (黒木神社)

か、こうあってほしいという願望が、このような伝承を生んだのかもしれないな~と思っていて、やはり斐川町でも八上比売は人々に愛されて、同じような理由で伝承が生まれたのかと思っていたんですが、何か しっくりこないものを感じて、「子捨て」に関してどんな意味があるのか自分なりに納得のいく説明がしたくなりました。それから もう一つ、御子神の二つの神名です。古事記では【木の股にさし挟んで置かれたから木俣神と名付けた】と神名由来が語られているのに、御井神についてはまったく説明もなく「亦(また)の名を御井神と謂ふ。」と取って付けたようにあるだけで、こちらもなんだかモヤモヤしたままです。(私の個人的感情ですが…)そんなことを思いつつ、少しづつ調べていたら去年の夏、「出雲の源郷 斐川の地名散歩」という神話伝承が由来になった地名辞典と出会いました。その中に「結(むすび)の郷」「姥捨て山と木の股年」という章があり、次のような伝承が伝わっています。

姥捨て山の地名が残る、斐川町直江(なおえ)に結という地区があり、そこに伝わる伝承です。「還暦(生まれて61年目)の年を木股年(このまたどし)といい、この年になると姥捨てと云って老人を山へ捨てた(略)……、しかし結の郷では、生活にゆとりのある人は木股年になると、静かな山に入って隠居した(略)……そこは豊かで住みよい土地であり隠居所だけでなく産屋もあり、お産や子育ての世話もした。八上比売がこの地で産気づいた時、木股年の老女たちが出産を手伝い、そのことから木俣神(このまたのかみ)と言われるようになったのではないか。(後略)…。」

つまり、八上比売ゆかりの地・斐川町では、【木の股に挟んだから木俣神ではなく、木股年の人たちがお産や子育てを手伝ったから「木俣神」といわれるようになったのではないか!?】と、いうことらしいのです。この伝承を見つけた時は「やっと見つけた!やっぱり!!」という気持ちと「まさか!?」という両方の気持ちで鳥肌が立ちました。多分、斐川町の人たちには当たり前のことで、「見つけたも何も、みんな知ってるそんな大した事ではないよ。」と言われそうですが、私にとっては大発見でした。(だいぶん後になってから藤岡先生にその話をしたら、「地元の人でも知る人は少ない」といわれ、やっぱり大発見だったかも!)伝承には続きがあって、八上比売は因幡には帰らず木俣神の成長を願いこの地に留まり、御子とともに結の郷の守護神となり結神社にお祀りされています。結神社とは実巽(じっそん)神社のことで雲陽誌(うんようし:享保2年[1717年]に松江藩士の黒澤長尚が編さんした出雲の地誌)にも記録があります。

そしてこの伝承を知った時に、以前から考えていた疑問やら仮説やら気になっていたワードやらが1本の線につながりました。(ここでは「結びついた」の方がふさわしいですね…)

 

 

 

 

 

(御井神社)                     (安産祈願の絵馬)

この続きは、次回『御子神は二人いた!!? ………かもしれない』篇 vol.2でお話します。それではまた お会いしましょう~。 みなさん よいお年を~!!(*^▽^*)ノシシ (おっちー)