河原城風土資産研究会
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古事記(ふることふみ)の倭(やまと)ごころ

その拾 【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.3】

2012年6月15日

みなさん こんにちは。前回の続きです。

片山神社の最初の御祭神は誰だったのか?というところで、私の考えを話したところで終わっていましたね。 なぜそう思うのか、理由を話す前に、下の図をご覧ください。これはTさんの「郷土研究―大字袋河原之調査」にある大洪水のあった文禄2年を挟んだ前後の千代川の川筋を描いた絵図です。

文字が読みづらいですが、実線が現在に近い川筋で破線が大洪水の前の川筋です。智頭川が合流した千代川は丸山とお城山をなめるように流れ、八東川と合流し七つ山(長瀬の後方の山)の裾野のギリギリを通り蛇行し、円通寺・八坂のあたりでまた蛇行していました。(破線部分)

そして、ここにはありませんが、千代川に合流している八東川には私都川(きさいちがわ)が流れ込んでいるんですが、当時は単独で流れていたことが確認されています。私都川は八東川とは別のルートで国中(くんなか)平野を流れ、河原町にたどり着き、霊石山の麓を洗っていたのです。霊石山から流れ出る大小の滝も流れ込み豊かな流れであったのでしょう。そして、その私都川沿いに霊石山を背負って片山神社が眼前に広がる宮原千軒(みやはらせんげん)の守り神として鎮座していたのです。今も片山部落の中に私都川の名残りの用水路があり、入り口付近にはお瀧さんも確認でき弁天様もお祀りされています。今回の宮原探しには、この私都川も大きな意味を持つのです。

私都とは「きさいち・きさいべ」と読み、皇后とかかわりのある地名なんです。「日本書紀」には私部(きさいちべ)と記されています。皇后に関係したいろいろ仕事をする役所・これを私府(きさいふ)といい、その任に当たる人を私官(きさいかん)といいました。后のために農耕をしたり、身の回りの世話をする人々を総称して私部(きさいべ)といい、いわゆる部民(べのたみ)と呼ばれる人々です。

物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に対抗する為、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達(びだつ)天皇の皇后・豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)、後の推古天皇に献上しました。以来、交野市の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民として組織されました。その中心になった村が私市であり、私部だったのです。これが、後世、訛って、「きさいちのうち」「きさいち」となったといいます。この皇后の身の回りの世話をする人々=私部の民が古代因幡の国の八上郡(やかみごおり)にもいて、それが私都川上流の私都の人々でした。そしてその周辺の神社にお祀りされている御祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」という皇室に関係の深い女神様です。瀬織津姫は古事記にも日本書紀にも出てこない、唯一、大祓詞(おおはらえことば)に1度だけ登場する謎の女神様です。

「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」の最初でもお話したように、古事記・日本書紀は時の権力者が自分たちに都合の悪い部分や、書かなくてもいい部分、書く必要のない部分についてはカットしています。そして、歴史の闇に葬られたであろう歴史書も数多くあり、その中の一つに「ホツマツタエ」というものがあります。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、江戸時代に偽書の烙印を押されてから忘れ去られていた歴史書です。この「ホツマツタエ」を近年、研究・調査する動きが出始め、実際に学者さん、民間人、宮内庁・皇室関係者、神社関係者などの方々が研究しています。この「ホツマツタエ」の内容はと言うと、「ヲシテ文字」という古代文字で書かれ解読がとても難しいのですが、瀬織津姫に関して次のように書かれています。(ザックリまとめました) そもそも天照大御神(あまてらすおおみかみ)は男神で、その皇后が瀬織津姫だと。もう、ビックリです!!女神だとばかり思っていた天照大御神が男神で皇后がいたなんて!!初めはチョット眉つばなカンジがしいましたが、自分でも少しづつ調べたり、本格的に研究なさっている八頭町出身の神話研究家の大江幸久(おおえ ゆきひさ)氏のご教授を頂いたりして…「もしかすると!?」と思い始めました。実際、天照大御神は男神かもということは一部では云われてましたし、私も古事記・日本書紀が成立した年代に女性天皇が続いたので敬意を払って(気を遣って!?)女神にしたんだよ~なんてことは納得できるので、ホントは男神って云われても「そうかも!?」と自然に考えることはできます。それに世界的に見てどの国の部族の太陽神も大体が男神ですもんね。その他にもいろいろと裏付けになる資料や現象、現地調査や地元の石碑・口伝などで瀬織津姫が皇后をお護りする象徴であり、皇后をお世話する私部の人々がお祀りしていた女神様だとわかったのです。しかし、何らかの理由で瀬織津姫は正式な倭の歴史から姿を消し去られたようなのです。『全国に「瀬織津姫」という祭神名で祀られている神社は約500社で、その中で鳥取県は26社と、数においては全国で3番目に多く残っています。1位の岩手県が36社、2位の静岡県が32社ですが、面積は岩手が鳥取の4倍以上、静岡が鳥取の2倍以上です。すると密度比較では鳥取県が断トツでナンバー1なのです。瀬織津姫を祀る神社の数と密度において、全国を見渡しても突出している鳥取県ですが、中でも因幡に集中しているのです。』(大江氏の考察より抜粋) 名前を変えられて(変えざるをえない理由で)祀られている神社はこの何倍にもなるでしょう。そして私都にはそのほかに、皇室と関わる「峰の薬師」があります。『 ここは皇族の血統以外で初めて天皇の后となった藤原不比等の娘、光明皇后と関わる寺院です。光明皇后の母君である縣犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)が、自分の娘を皇后にしようと誓願を立てて、その念願成就の後にこの私都に日本三大薬師の一つ、峰寺薬師を創建したのです。 奈良時代に、皇室とその親族以外の身分から天皇の后が入内する、これはそれ以前にはなかったことです。 そのタブーを破って藤原不比等と橘三千代は自分の娘を入内させようとしました。これは藤原氏が覇権を握るための大きな出来事です。そしてそれは皇室にとっても一つの歴史的転換点となります。この入内を成功させるために、橘三千代が誓願した三つのお寺の一つが、なんと下私都の峰寺(みねでら)にある峰寺薬師なのです。これが元で奈良法隆寺、三河鳳来山薬師寺と共に日本三大薬師と呼ばれているのです。ではなぜ、その一つがこの私都にあるのか、いままで全くの謎でした。 私都は天照大神の正后といわれる瀬織津姫(伊勢神宮内宮正宮の隣にある荒祭宮の祭神なので、天照大神とは並々ならぬ御縁がある祭神です。)を祀る神社が密集しているところであることから、私都は瀬織津姫と並々ならぬご縁を持っているところとして、おそらく古代の大和においても有名なところだったのでしょう。 橘三千代の娘を是が非でも天皇の后にするためには、天照大神のお后である瀬織津姫にご縁の深いところにも誓願寺を建てる必要があると思ったのでしょう。そうして橘三千代・藤原不比等はその宿願を果たすためにその薬師の寺を建立するのにふさわしい所として奈良の都から遠い瀬織津姫と縁の深い八上の私都を選んだものと思われます。 そうして実現したのが、聖武天皇の后、光明皇后です。これが私都に誓願寺、日本三大薬師の峰寺薬師が建立された理由と思われます。  このように八上の私都は古くは皇室やお后と密接な関係を有していた、と思われるのです。つまり瀬織津姫が記紀によって抹消される前、私都は中央からも意識される土地柄であったのです。』(大江氏の考察より抜粋)

瀬織津姫は名前のとおり水の神であり龍神様です。だから、罔象女神(みずはのめ:お瀧さん)、高龗神(たかおかみ)、闇龗神(くらおかみ)、市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと:弁天さん)などに名前を変えてお祀りされている事が多いことが調査の結果、明らかになりました。そこで、この私都川の清い流れの岸辺に片山神社を遷座したのではないかと思うのです。「えっ!なんで?どこからかって!? ……霊石山の中腹からです!!」 「なんで霊石山からになるかって!!??」「それはですね……」

それは次回【八上比売の謎 vol.3】で!! (*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 

その九 【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.2】

2012年6月8日

みなさん こんにちはー!!

「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」2週間ぶりのUPで~す。

先日、「この連載楽しみにしてます!」というメールを頂いて、メチャメチャ感動の嵐状態の私です♪♪ こんな私の拙い連載を(しかも、かなりの妄想族かも)楽しみに読んでいただいているなんて本当にありがとうございます。 (―人―)  これからもガンバリマス!!!

8回目の今日は前回で予告した「八上比売の生誕地はここだった!!! ………かもしれない」篇をおおくりします。

まだまだ調査途中なので断言はできませんが、1つの可能性だと思って読んでくださいね。

前回の【八上比売の謎 vol.Ⅰ】で「因幡誌」「稲葉民談記」「因伯年表」「大日本地名辞書」などの記述の矛盾や「和名抄(わみょうしょう)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の参考記述の紹介をしました。    八上郡の中に宮原があるに違いないという仮説のもとに宮原探しが始まりました。

まずは河原町から!実は以前から臭いぞ!”と思っている場所があって、時間が出来たら調べてみようと思っていたところから手をつけました。すると何ともあっさりと昔の地名台帳から宮原を見つけてしまいました!!( ̄∀ ̄;)………う、嘘でしょ!? こんなに早く? なんか出来すぎてない!? こんな感想を漏らす私に、以前から応援してくださっている方は「きっと導かれたんだから、疑わずに進んでみれば!?」と頼もしいエール。 俄然やる気の出た私はさっそく その地域の生き字引探しを始めました。尋ね尋ねて、たどり着いたのは偶然にも知り合いの方でした。“灯台もと暗し” これもやっぱりお導き? その方は霊石山(れいせきざん)の麓の地域・片山部落のTさんとおっしゃる方です。定年退職してから地域の歴史をコツコツと調べていらっしゃるそうで、私の宮原探しの話をしたら「面白そう!」と協力してくださいました。

そしてその場所とは今は千代川の水底に沈んでしまった『宮原千軒(みやはらせんげん)※』とバイパス横の『片山神社』です。(※…千軒とは古代から中世、近世に大規模集落として繁栄した経済の中心地)この神社は口伝によると鎌倉時代の建保年間(1213~1219年)国英神社より勧請とされているが、勧請理由不明ということで社号は八幡宮に。

明治元年、片山神社に改称。明治5年に国英(くにふさ)神社の摂社に。祭神は 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと:仲哀(ちゅうあい)天皇)、息長帯比売命(おきながたしひめ:神功皇后(じんぐうこうごう))、品陀和気命(ほむだわけのみこと:応神(おうじん)天皇)の親子3柱です。しかし、「国英神社より勧請された」というところがTさんは疑わしいと思うそうです。まず位置に問題があるそうです。片山部落からは外れた場所にあり、今は片山の方たちが管理していますが、その昔、文禄2年(文禄年間1592~1596)の大洪水までは袋河原(ふくろがわら)の方たちが管理していたそうです。袋河原といえば そう、あの八上比売のダンナさん大国主命(おおくにぬしのみこと)が肩にかけた袋を置いたと伝わる場所です。う~ん、だんだん匂ってきましたよー。 なぜ片山神社を片山部落の人ではなく袋河原の人たちが管理していたんでしょうか。Tさんの蔵書で「郷土研究―大字袋河原之調査」(明治19年~大正7年に編集された)には古代からの記録の中に文禄2年の大洪水で千代川の川筋が変わるまで、『袋河原はもと片山の北方、瀧山と云ふ地の前(西なり)にありしと云へば、宮原千軒に属せしもの』とあります。袋河原は現在の千代川が流れる場所にあった宮原千軒の中にあった、ということです。宮原千軒の正面・霊石山を背にして鎮座する片山神社は宮原千軒の産土神であり守り神だったのでしょう。そこを管理していたのが袋河原部落でした。鎌倉時代以前の記録がないので 最初に祀られていたご祭神が何だったのかは断言できませんが、おそらくお瀧さん(罔象女神みづはのめ、高龗神たかおかみ、闇龗神くらおかみ、瀬織津姫せおりつひめ、などのいずれかの水の神・龍神様)ではなかったかと思うのです。 *― つづく ―*(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 

その八 【三・五・七】

2012年5月29日

みなさん、こんにちは~。                                              今日は前回の予告通り「八上比売の生誕地はここだ-!!! ………ったかもしれない」篇にいきたいところですが、6月3日のバスツアーでもご案内する内容ですので それまではチョット休憩ということで、今回は古事記の最初からお話したいと思います。

「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら・たかまがはら)に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)……」から始まる古事記・上巻(かみつまき)の本文、このフレーズを聞いただけでワクワク・ドキドキするのは私だけでしょうか!?

宇宙が出来てまだ間もない時、時間も音も光も星もない天も地もなく混ざり合っていた空間が、天と地に初めて分かれ始めた時、高天原(たかまのはら・たかまがはら:天上界)に神が現れます。たったこれだけの1行の文章の中に語りつくせないほどの摩訶不思議が隠されています。

「天地初めて発けし時」なんてスゴクないですか!? 21世紀の科学力をもってしても解明できない宇宙の初め“ビッグ・バン”を想像させる書き出しは、古代日本人がどうして知り得た知識なのか!? そして「高天原」という発想。単に天上界と言うだけではなく縦(高さ)+横(広がり)+時間の3次元の世界を認識していると考えるのは深読みでしょうか!? そして、次がとっても日本人らしくて大好きな表現(考え方)なんですが、「成りし神の名は」これですよ、コレ!!西洋のように神が万物の創造主であり唯一絶対無二の存在というのではなく、森羅万象の中からというか一部として自然と生まれた、これが「成る」ということであり日本の神々の「化成する神」もしくは「物実(ものざね)」の考え方です。だから日本には八百万(やおよろず)の神が存在するのです。古代人は生まれてきたこと、生きること、死んでいくこと、死んでからのことまで全ての事に感謝し、そこには何かしらの力(目に見えるもの、見えないもの全部)が働き、神の存在を感じながら生活していたんだろうなぁ~と想像できるのです。 私個人としては無宗教なんですが、八百万の神の存在はな~んか感じてしまうんですよね~(*U_U*)

やっぱり倭心のDNAが私の中にも受け継がれてるんでしょうね。

話が長くなりましたが、出だしのトコだけでも熱く語ってしまう私でした。これじゃあ なかなか進まないんですが、みなさん あきれないで最後までお付き合いくださいねー!!

こんな風に天之御中主神のあとに、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)が成りました。「この三柱(みはしら:神様は一柱二柱と呼びます)はみな独神(ひとりがみ)として成りまして、身を隠したまひき。」とあります。 この三柱の神様たちはどんな神様たちだったんでしょう? 天之御中主神は天上界の中で中心的な最高神。高御産巣日神は天上界(皇室系)の創造神。神産巣日神は地上界(出雲系)の創造神。 独神というのは性別もなく単独神で系譜を持たない身には見えない神のことで、いつの間にか居なくなった(身に見えないだけで私たちの傍にちゃんと居るんですけどね)という意味です。

このあと どんどん神様たちがお生まれになりますが、続きはまた次回でお話しますね。それでは今日はこのへんで~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

その七 【天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時】

2012年5月25日

みなさん、こんにちは~。                                                                                          今日は前回の予告通り「八上比売の生誕地はここだった!!! ………かもしれない」篇にいきたいところですが、6月3日のバスツアーでもご案内する内容ですので それまではチョット休憩ということで、今回は古事記の最初からお話したいと思います。

「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら・たかまがはら)に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)……」から始まる古事記・上巻(かみつまき)の本文、このフレーズを聞いただけでワクワク・ドキドキするのは私だけでしょうか!?

宇宙が出来てまだ間もない時、時間も音も光も星もない天も地もなく混ざり合っていた空間が、天と地に初めて分かれ始めた時、高天原(たかまのはら・たかまがはら:天上界)に神が現れます。たった1行のこれだけの文章の中に語りつくせないほどの摩訶不思議が隠されています。

「天地初めて発けし時」なんてスゴクないですか!? 21世紀の科学力をもってしても解明できない宇宙の初め“ビッグ・バン”を想像させる書き出しは、古代日本人がどうして知り得た知識なのか!? そして「高天原」という発想。単に天上界と言うだけではなく縦(高さ)+横(広がり)+時間の3次元の世界を認識していると考えるのは深読みでしょうか!? そして、次がとっても日本人らしくて大好きな表現(考え方)なんですが、「成りし神の名は・・・」これですよ、コレ!! 西洋のように神が万物の創造主であり唯一絶対無二の存在というのではなく、森羅万象の中からというか一部として自然と生まれた、これが「成る」ということであり日本の神々の「化成する神」もしくは「物実(ものざね)」の考え方です。だから日本には八百万(やおよろず)の神が存在するのです。(外国人にはこの考え方が理解できないようです)古代人は生まれてきたこと、生きること、死んでいくこと、死んでからのことまで全ての事に畏敬と感謝の心を感じ、そこには何かしらの力(目に見えるもの、見えないもの全部)が働き、神の存在を感じながら生活していたんだろうなぁ~と想像できるのです。 私個人としては無宗教なんですが、八百万の神の存在は な~んか感じてしまうのですよね~(*U_U*)

やっぱり倭心のDNAが私の中にも受け継がれてるのでしょうね。

話が長くなりましたが、出だしのトコだけでも熱く語ってしまう私でした。これじゃあ なかなか進まないんですが、みなさん あきれないで最後までお付き合いくださいねー!!

こんな風に天之御中主神のあとに、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)が成りました。「この三柱(みはしら:神様は一柱二柱と呼びます)はみな独神(ひとりがみ)として成りまして、身を隠したまひき。」とあります。 この三柱の神様たちはどんな神様たちだったんでしょう? 天之御中主神は天上界の中で中心的な最高神。高御産巣日神は天上界(皇室系)の創造神。神産巣日神は地上界(出雲系)の創造神。 独神というのは性別もなく単独神で系譜を持たない目には見えない神のことで、いつの間にか居なくなった(目に見えないだけで私たちの傍にちゃんと居るんですけどね)という意味です。

このあと どんどん神様たちがお生まれになりますが、続きはまた次回でお話しますね。それでは今日はこのへんで~(*^▽^*)ノシシ (おっちー)

その六【八上比売の謎vol.1「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.1】

2012年5月12日

みなさん こんにちはー!!春たけなわ❀というか初夏に近い陽ざしの今日この頃ですね~。

「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」6回目の今日は河原町のマドンナ“八上比売(やかみひめ)”さんについて何回かに分けてお話ししますね。

その参で「古事記は、大和朝廷(やまとちょうてい)の正当性と皇室の歴史を後世に伝えるために作られたものなので、都合の悪い部分や、書かなくてもいい部分、書く必要のない部分についてはカットされています。
八上比売と大国主命(おおくにぬしのみこと)のくだりの詳細がカットされているのは、都合が悪かったのか、必要のない部分だったのかは解明されていませんが、それぞれの地域に残る多くの神話伝説をみると、須勢理毘売(すせりびめ)を怖れて泣く泣く因幡(いなば)に帰った悲恋のか弱いお姫様とは違って、自分の意思を持ち、はっきりと主張できる自立した女性としての八上比売像が浮かんできます。」と書きました。八上比売さんって いったいどんなお姫様だったんでしょう!?

八上比売さんは謎めいた女神さまで、神と言われたり巫女と言われたり、ラブストーリーのヒロインながら勇猛果敢に戦場に赴いたり鬼退治をしたりと本当に多面性を持った方だったようです。
河原町は八上比売さんのふるさとと言いますが、厳密にいえば八上比売さんをお祀りする賣沼神社(めぬま)と墓といわれる嶽古墳(だけこふん)があり、それが裏付けとなっている部分が大きいと思います。
ここ近年、「因幡のしろウサギ」を研究する学者さんや郷土史研究家の方が増えて少しづつ市民権を得ていますが「八上比売」に関しては過去も現在も調査が進んでいない状況なんです。でもでも、それじゃあチョット寂しいじゃないですか~。謎めいたままのほうが夢があっていいよ、と言う声もあるでしょうが、自称「八上比売ファンクラブ」会員番号№1の私としては駆け出し郷土史研究家として調査活動しています。

鳥取藩医師で郷土史家の安部恭庵(あべきょうあん)が著書の「因幡誌(いなばし)」には次のようにあります。
「…八上姫の旧居は今の智頭郡用瀬(ちずごおりもちがせ)宮原といふ村なり。上古此処に八上ひめ住玉ふなり。其の親の名は安蔵長者(あぞうちょうじゃ)といふとあり。……分かれて今曳田(ひけた)ノ郷に鳥越といふ農家は其末なりといふ。……」
また、大日本地名辞書の宮原の条に「宇部神社の明記に、八上姫は宮原に住みたまひ、其親の名は安蔵の長者と云えり。」とあり、因伯年表には「簗瀬山(やなせやま)の嶽古墳は姫の墓だが旧家は宮原だ。」とあります。

八上比売さんはその名の通り「八上郡(やかみごおり)」の生まれですが、古代の八上郡っていったいどの辺だったんでしょう??

『和名抄(わみょうしょう」)』によれば八上郡とは律令制度の古代因幡國(701年以降)の郡名で若桜(わかさ)、丹比(たじひ)、刑部(おさかべ)、亘理(わたり)、日部(くさかべ)、私部(きさいべ・きさいちべ)、土師(はじ)、大江(おえ)、散岐(さぬき)、佐井、石田、曳田(ひけた)の12郷が記されており、因幡国内で最大規模の郡でした。
ここでチョット気がついた方もいらっしゃるかもですが、用瀬村の名前がありません。用瀬村はその当時は智頭郡(ちずごおり)に含まれていたのです。でもでも「因幡誌」「大日本地名辞書」「因伯年表」には生まれたのは用瀬って書いてますよね!?
実は先出の「大日本地名辞書」にはこんな記録もあります。「当社(賣沼神社)は八上姫の産誕したまへる地とぞ」とあり、「因幡誌」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」には「当社(賣沼神社)は八上姫の霊神也。……八上姫の出生の地なるを以って祭祀すと。」とあり、「因伯大年表」には「八上姫ノ大神出生ノ地為ルヲ以ッテ住在鎮座」とあります。……で、結局はどっちが本当なの!!!

にわかには信じがたいことですが、同じ文献にまったく異なる内容の記述があるという事実です。早い話が、古代因幡の歴史はこれをはじめ、解明されていないことがテンコ盛りだということなんですよね~。しかも資料もチョ―少ない( ̄∀ ̄;)

でもですよ、八上比売が存在したのは八上郡だということはほぼ間違いのないことなので、歴史の文献はともかく古代の郡制からみると用瀬の宮原説は違うんじゃないかなぁ~と、駆け出し郷土史研究家は思うのでした。

じゃあ いったい 何処なんだー?? と言うことで、次回は駆け出し郷土史研究家の調査報告「八上比売の生誕地はここだった!!! ………かもしれない」篇をおおくりします。

それでは次回まで ごきげんよう(*≧▽≦*)ノシシ(おっちー)