河原城風土資産研究会
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河原城だより

その拾参【神話の神々vol.2 伊邪那岐命と伊邪那美命】

2012年7月14日

みなさん こんにちはー。神話の神々vol.2はいよいよ「国生みと神生み」が始まります。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は天の御柱の左右から ぐるっと一廻りして出会ったところで伊邪那美命が「あなにやし、えをとこを(ああ、なんて素敵な男性でしょう)」と伊邪那岐命に声をかけます。その後、伊邪那岐命が「あなにやし、えをとめを(ああ、なんて素敵な乙女だろう)」と言い、まぐはひました。しかし、生まれた子は「水蛭子(ひるこ)」だったので葦の船に乗せて流しました。次の子も「淡島(あわしま)」で子どもとして認めなかった。伊邪那岐命と伊邪那美命は高天原(たかまのはら・たがまがはら)の天つ神に相談したところ、ふとまに(鹿の肩骨を焼く占い)をして「女から先に声をかけたので不具の子ができた。今度は男か先に声をかけて国生みをやり直しなさい。」と、おっしゃいました。

この「女から先に声をかけたので不具の子ができた。」というのは夫唱婦随・男尊女卑の中国の儒教の影響だと一般的には云われていますが、もともと兄妹である伊邪那岐命と伊邪那美命がまぐはう=近親相姦のタブーを伝えたものという説もあります。また、単に男尊女卑の影響だけではなく男女には性別による特性や役割などがあり、人としては平等だが同質ではなく、お互いの違いを認め合わなくては何事も上手くいかないということを教えているのかもしれません。やはり昔も今もコミュニケーションが社会の基盤だったということですよね。(o^0^o)

そして、ここで一つ水蛭子(ひるこ)については避けて通れないのですが、この水蛭子も様々な説があります。例えば、日本書紀では蛭児と書き三年たっても足の立たない子としています。 ~「そもそもヒルコという呼称・字義からして解釈が分かれる。記紀では表記が用いられ、これに対して文字はあくまでも仮借表記であり別の字があてられていた説もあり、むしろこちらのほうで解釈する人が多い。例えば江戸時代には滝沢馬琴によってヒルコ=日子であると説かれ、さらにヒルコは北極星だと言っている。 馬琴の考えは形を変え継承され、ヒルコは昼子、日子などと考え、これは比古(彦)の事だとして昼女(ひるめ)、日女(媛)に対応するものとする説。さらに、ヒルコを人格ととらえ太陽神ヒルメの兄妹であるがヒルメと比べると劣った存在であるとする説。などなどのヒルコ論の中でよく取り上げられるのがヒルコを日子としてヒルメと対照的にとらえる説で、この説に立つと、ヒルコ(男)は葦の船に乗せて棄てられてしまうわけで、太陽神としてふさわしいのはヒルメ(女)ということになります。これは、太陽神(皇祖神)タカミムスイノカミからアマテラスオオミカミ、つまり、男性神から女性神に転換されるという日本神話の構造からみて妥当な解釈だといえる。しかし一方では、記紀の中では太陽に関する字句として日孁(ひるめ)がきちんと用いられているのに対し、なぜヒルコにはこうした表記が使用されていないのか疑問もおきてくる。ヒルコに関しての字で表記が統一されていることを重視するなら、ヒルコの実体は蛭のような存在となり日子の文字からの解釈は妥当ではないといえよう。つまり、ヒルコの解釈は記紀の表記を生かして考えるのが穏当なように思われる。背景として、古代社会の疾病、それらに対応する医療技術の未発達などが考えられる。また、出産、とくに初産の難しさも考えるべきかもしれない。また、ヒルコを船で流すという点についても、すでに指摘されているように障害を持った人や流産した児を放棄するといった風習や習慣があった可能性も否定できないであろう。」(「古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎」瀧音能之(たきおと よしゆき)氏著から抜粋)~

また、流されたヒルコ神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っていて、日本沿岸の地域では、漂着物をエビス神として信仰するところが多く、ヒルコがエビス(恵比寿・戎)と習合・同一視されるようになりました。ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、西宮神社(兵庫県西宮市)などが有名です。ヒルコがエビス神である信仰は、古今集注解や芸能などを通じ、広く浸透しています。蛭子と書いて「エビス」と読むほど馴染み深いのですが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代神(ことしろぬし:大国主命の息子)とするところも多いのです。生まれてすぐに流されてしまうヒルコへの哀れさの感情が、再生の神話を作りだしたとも考えられますね。

このように代表的な解釈でさえ何通りもあり、マニアックなものをいれると限りなく出てきます。謎めいているのはヒルコの解釈だけにとどまらず、古事記そのものの解釈もまだ統一されておらず、これからちゃんと解明されるのはあと何十年、いや何百年かかるかもしれません。学者さんたちの説も参考にしながら、でもみなさん自身の感性で受け止めればいいのではないかなぁ~と思うのです。

こうして、ふとまにのお告げ通りにして伊邪那岐命と伊邪那美命はこのあと淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま=淡路島)から順調に国生みをしてゆきます。後に八番目の大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま=本州)を産んだので古代日本列島を大八島(おおやしま)と呼びます。これは「穀物が豊かに実る国」という意味です。また、秋津とはトンボの古名でトンボが交尾をしながら飛んでいる姿に日本列島が似ているからこう呼ばれたとも言われています。(ということは、この時代にはすでに日本列島の形が分かっていたということになりますが……どうやって!? と、またまた謎が増えましたが、そのお話はまたの機会に…)

では、ナゼ淡路島から!? 私も不思議に思いました。これは淡路島周辺の海人族(あまぞく)が伊邪那岐命と伊邪那美命を信仰していることが原因で、もともとは淡路島周辺の島生みの話が宮廷神話として語られたとき大規模な国生みに発展したものと思われます。

産む順番も①淡路島、②四国(伊予=愛比売[えひめ]、讃岐=飯依比古[いいよりひこ]、阿波=大宜都比売[おおげつひめ]、土佐=建依別[たけよりわけ])、  ③隠岐の島=天之忍許呂別[あめのおしころわけ]、 ④筑紫=九州(豊=豊日別[とよひわけ]、肥=建日向日豊久士比泥別[たけひむかとよくじひねわけ]、熊曾[くまそ]=建日別[たけひわけ])、⑤壱岐の島=天比登都柱[あめひとつはしら]、 ⑥対馬=天之狭手依比売[あめのさでよりひめ]、⑦佐渡の島⑧大倭豊秋津島=天御虚空倭豊秋津根別[あまつみそらとよあきづねわけ]と西日本が中心で、畿内から瀬戸内海をへて大陸に向かう航路を意識しているように思います。

大八島を産んだあと小豆島、大島、姫島、五島列島、双子島など瀬戸内海や九州の小さな島々を産んで国生みを終えた二神は、次に神生みにとりかかりました。

つづく! (*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年6月

2012年7月13日

その拾弐【神話の神々vol.1 宇摩志阿斯訶備比古遅神】

みなさん こんにちはー。ずいぶんお休みしちゃいましたけど、みなさん お元気でしたか?                                        この前の「…… 倭(やまと)ごころ・その七」の続きです。

前回「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時……」から始まって三柱(みはしら)がお成りになった2行目のところまででした。(う~ん、このペースだと下つ巻まで話すのに何年かかるやら……(^_^;))

この最初に現れた三柱の神は造化三神(ぞうかさんしん)と呼ばれる創造の神様です。そして、このあと「国稚(くにわか)く浮ける脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あ)がる物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまいき。上の件(くだり)の五柱(いつはしら)は別天つ神(ことあまつかみ)。」と続きます。 出来たばかりの天と地はまだはっきりとした形にはなっておらず、国土はまだ固まらず、水に浮いている脂のようにドロドロしてクラゲのように漂っていました。そんな泥の台地から生まれたのが、私が大好きな古事記の神様ベスト5の中の一柱“宇摩志阿斯訶備比古遅神“。

泥の中から若い葦の芽が萌え出て、その勢いある先端の部分からお生まれになった神様で、まさに全ての生命の源のような希望の塊のような神々(こうごう)しい神様です。葦の新芽に象徴される生命力や成長力の神格化で、日に20センチ近く伸びる葦は古代人にとって憧れをも抱くほどの強い生命力の象徴で、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原水穂国(とよあしはらの みずほのくに)」などのように「葦の茂る国」=「稲穂が成長する豊かな国」という意味で「葦原」は古代日本そのものだったのです。この神様の名を口にすると、なんだが心が癒されて元気が出てきて清々しい気持ちになります。古代人がどんな魔法をかけたのか分かりませんが、倭ごころを感じるのは やはり宇摩志阿斯訶備比古遅神が細胞レベルで日本人の中に受け継がれているせいなんでしょうね~。それに私たちは「お米の国の人」ですしね(o^0^o)

そのあと、天之常立神がお生まれになります。やはり宇摩志阿斯訶備比古遅神とセットで考えると、「葦のように強い生命力の日本の国と民衆が、常に天に向かって(上へ上へと=世界の大国と肩を並べるくらい上へ)伸びてほしい!!」という願いがこもった希望の神様たちなんでしょうね。 先にお生まれになった造化三神とこの二柱の神を別天つ神といって、目には見えませんが特別に尊い神様として私たちの周りに、心の中に、いつも一緒にいて見守ってくださる神様です。

このあと、神世七代(かみよななよ)という高天原(たかまのはら・たがまがはら)を形成する二柱の独神と五柱のカップルの神様たちがお生まれになり、その最後に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)がお生まれになり、いよいよ国生みが始まるのです。宇宙が始まって、この伊邪那岐命・伊邪那美命のカップルが出現するまでにナント約150億年が経過した計算になるそうです。( ̄∀ ̄;)

天つ神一同から依頼を受けた伊邪那岐命・伊邪那美命は神聖な天の沼矛(あめのぬぼこ)を授かって天上界から地上に降りる天の浮橋(うきはし)の途中から地上の世界はどうなっているか突き刺してみました。そして、かき回して引き上げてみると沼矛の先から潮が滴り落ち、それが積もり固まって淤能碁呂島(おのごろしま)という島ができました。二柱はその島に宮殿を建て神聖な御柱を建てました。

そして有名なシーン「ここにその妹(いも=妻)伊邪那美命に問いて『汝(な)が身は如何(いか)にか成れる』と日(の)りたまへば、『吾(あ)が身は成り成りて、成りあわざる処一処(ところ ひとところ)あり』と答へたまひき。ここに伊邪那岐命 詔(の)りたまはく、『我(あ)が身は成り成りて、成り余れる処一処あり。かれ、この吾が身の余れる処をもちて、汝が身の成りあわざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに』とのりたまえば、伊邪那美命、『然善(しかよ)けむ』と答へたまひき。」 現代語訳をすると「伊邪那岐命が妻の伊邪那美命に尋ねて『おまえの身体はどのように出来ているか?』と仰せになると『私の身体はだんだん成り整いましたが、成りあわず へこんだ処があります。』とお答になった。そこで伊邪那岐命が『私の身体はだんだん成り整ったが、成り余って出っ張った処がある。私の出っ張った処を おまえの へこんだ処に差し入れて国を生もうと思うがどうだろう?』と仰せになると伊邪那美命は『それは良い考えですね』とお答になった。」

「ここに伊邪那岐命 詔りたまはく、『然らば吾と汝とこの天の御柱行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ』とのりたまひき。」こうして 伊邪那岐命・伊邪那美命は夫婦の契りを交わし国生みを始めます。 続きは次回で! (*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 

その拾壱【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.4】

2012年6月23日

みなさん こんにちはー。この前の台風大丈夫でしたか?

前回は、私都川(きさいちがわ)の岸辺に片山神社を霊石山(れいせきざん)の中腹から遷座したのではないか!?というところまででした。   そうなんです、霊石山からなんです!  ……たぶん(^_^;)

古来、日本人はお山信仰をしていました。山に神様が宿り、山そのものが御神体としてお祀りし祠やお宮を建て、時代を経てだんだん里に降ろして(遷座:せんざ)いったのです。

ところで、山の数え方をご存知ですか? 山は一座、二座…”と数えます。なぜかというと、古代日本人は山を神様がお座りになる椅子のようなものと見ていたからだそうです。だから、と数えるんですね。神様たちは高天原(たかまのはら・たかまがはら)から地上へ降り立つときに山の頂上を仮宮として滞在なさって、また神上がりなさいます。ですから、もう山そのものが尊い御神体として古代日本人はお祀りしていたんです。それが時代とともにだんだん人里に遷宮されるようになり、本宮は奥の院または奥都城(おくつき)として村を見下ろす山に残されたのです。奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)はいまでも三輪山(みわやま)を御神体としてお祀し、日本でもベスト3に入るパワースポットとして参拝者が絶えません。昔のままの信仰を形として残す山です。そして、御神体が大物主神(おおものぬしのかみ)=大国主命(おおくにぬしのみこと)の荒御霊なのもとても御縁を感じますよね。

霊石山には天照大御神(あまてらすおおみかみ)の降臨伝説(全国的にも珍しい)があり、その中腹に位置する御子岩(みこいわ:御冠岩[みかんむりいわ])には天照大御神のほかに神功皇后(じんぐうこうごう:長帯比売命[おきながたしひめ])、応神天皇(おうじんてんのう:品陀和気命[ほむだわけのみこと])の伝説もあります。神功皇后・応神天皇といえば、今の片山神社の御祭神です。この古事記ゆかりの霊石山が御神体そのもので御子岩といわれる縦・横・奥行き約5メートルづつある大岩が磐座(いわくら:まだ社殿がなかった時代に神が降臨する場所として原始的な祭祀を行った場所、または御神体)として祀られ元片山神社があったものと推察します。そして里に降り、天皇家に御縁のある私都川の岸辺に遷座した。もちろん御祭神は龍神系(瀬織津姫[せおりつひめ]、罔象女神[みずはのめ:お瀧さん]、高龗神[たかおかみ]、闇龗神[くらおかみ]、市杵島姫命[いちきしまひめのみこと:弁天さん])、そして八上比売(やかみひめ)であったと思います。八上比売もまた瀬織津姫とよくすり替えられているようです。 私とTさんが片山神社の口伝の信ぴょう性をイマイチ疑っているのは、こういう訳なんです。

片山神社を取り巻く環境や資料・伝説の数々を並べると、どう考えても霊石山から遷座され何かの理由で故意にすり替えられたのか、または故意ではなく伝達の途中ですり替わってしまったのかで八上比売さんの名前が消えてしまったのではないかと思うのです。

大穴牟遅命(おおなむちのみこと:大国主命[おおくにぬしのみこと]の幼名)がはるばる出雲からやってきて(たぶん海路?)最初の妻・八上比売を娶る話には翡翠(ひすい)を求めてやってきたとか、侵略しに来た(これは違うと思いますが)とか、同盟を結びに来たなど様々に推測されていますが、何がどうあれ大穴牟遅命がやって来たことによって出雲と稲羽の文化・技術の交流がなされたのは間違いないことで、古事記から読み取ると大国主命の国造りは稲作文化・技術の伝授が大きなものです。

6世前の先祖・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治して(暴れ川の斐伊川一帯を稲作地帯にした説)国造りをしたように、大穴牟遅命もまた稲羽の王の娘を娶る資格を得て稲羽に稲作文化をもたらし八上比売とともに国造りをしたのです。その最初の場所だったかもしれない宮原は国中平野(くんなかへいや)の中心・霊石山の眼下に広がるこの宮原千軒だったと思うのです。そしてその護り神として八上比売さんをお祀りしたのだと思います。

因幡の国が、悠紀(ゆき)の国・主基(すき)の国(大嘗祭[だいじょうさい]のとき神饌[しんせん]の新穀を奉るよう卜定[ぼくじょう]によって選ばれる国。平安時代以後は近江国に一定に、または丹波・備中を交替にあてるようになる)と何度も選ばれ朝廷から信頼されるほどの米どころにまでなったのは、大穴牟遅命と八上比売さんの御加護だったのでしょうね~。   (*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 

その拾 【八上比売の謎「八上比売の生誕地はここだった!!!…………かもしれない」篇vol.3】

2012年6月15日

みなさん こんにちは。前回の続きです。

片山神社の最初の御祭神は誰だったのか?というところで、私の考えを話したところで終わっていましたね。 なぜそう思うのか、理由を話す前に、下の図をご覧ください。これはTさんの「郷土研究―大字袋河原之調査」にある大洪水のあった文禄2年を挟んだ前後の千代川の川筋を描いた絵図です。

文字が読みづらいですが、実線が現在に近い川筋で破線が大洪水の前の川筋です。智頭川が合流した千代川は丸山とお城山をなめるように流れ、八東川と合流し七つ山(長瀬の後方の山)の裾野のギリギリを通り蛇行し、円通寺・八坂のあたりでまた蛇行していました。(破線部分)

そして、ここにはありませんが、千代川に合流している八東川には私都川(きさいちがわ)が流れ込んでいるんですが、当時は単独で流れていたことが確認されています。私都川は八東川とは別のルートで国中(くんなか)平野を流れ、河原町にたどり着き、霊石山の麓を洗っていたのです。霊石山から流れ出る大小の滝も流れ込み豊かな流れであったのでしょう。そして、その私都川沿いに霊石山を背負って片山神社が眼前に広がる宮原千軒(みやはらせんげん)の守り神として鎮座していたのです。今も片山部落の中に私都川の名残りの用水路があり、入り口付近にはお瀧さんも確認でき弁天様もお祀りされています。今回の宮原探しには、この私都川も大きな意味を持つのです。

私都とは「きさいち・きさいべ」と読み、皇后とかかわりのある地名なんです。「日本書紀」には私部(きさいちべ)と記されています。皇后に関係したいろいろ仕事をする役所・これを私府(きさいふ)といい、その任に当たる人を私官(きさいかん)といいました。后のために農耕をしたり、身の回りの世話をする人々を総称して私部(きさいべ)といい、いわゆる部民(べのたみ)と呼ばれる人々です。

物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に対抗する為、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達(びだつ)天皇の皇后・豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)、後の推古天皇に献上しました。以来、交野市の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民として組織されました。その中心になった村が私市であり、私部だったのです。これが、後世、訛って、「きさいちのうち」「きさいち」となったといいます。この皇后の身の回りの世話をする人々=私部の民が古代因幡の国の八上郡(やかみごおり)にもいて、それが私都川上流の私都の人々でした。そしてその周辺の神社にお祀りされている御祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」という皇室に関係の深い女神様です。瀬織津姫は古事記にも日本書紀にも出てこない、唯一、大祓詞(おおはらえことば)に1度だけ登場する謎の女神様です。

「ふることふみ(古事記)の倭(やまと)ごころ」の最初でもお話したように、古事記・日本書紀は時の権力者が自分たちに都合の悪い部分や、書かなくてもいい部分、書く必要のない部分についてはカットしています。そして、歴史の闇に葬られたであろう歴史書も数多くあり、その中の一つに「ホツマツタエ」というものがあります。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、江戸時代に偽書の烙印を押されてから忘れ去られていた歴史書です。この「ホツマツタエ」を近年、研究・調査する動きが出始め、実際に学者さん、民間人、宮内庁・皇室関係者、神社関係者などの方々が研究しています。この「ホツマツタエ」の内容はと言うと、「ヲシテ文字」という古代文字で書かれ解読がとても難しいのですが、瀬織津姫に関して次のように書かれています。(ザックリまとめました) そもそも天照大御神(あまてらすおおみかみ)は男神で、その皇后が瀬織津姫だと。もう、ビックリです!!女神だとばかり思っていた天照大御神が男神で皇后がいたなんて!!初めはチョット眉つばなカンジがしいましたが、自分でも少しづつ調べたり、本格的に研究なさっている八頭町出身の神話研究家の大江幸久(おおえ ゆきひさ)氏のご教授を頂いたりして…「もしかすると!?」と思い始めました。実際、天照大御神は男神かもということは一部では云われてましたし、私も古事記・日本書紀が成立した年代に女性天皇が続いたので敬意を払って(気を遣って!?)女神にしたんだよ~なんてことは納得できるので、ホントは男神って云われても「そうかも!?」と自然に考えることはできます。それに世界的に見てどの国の部族の太陽神も大体が男神ですもんね。その他にもいろいろと裏付けになる資料や現象、現地調査や地元の石碑・口伝などで瀬織津姫が皇后をお護りする象徴であり、皇后をお世話する私部の人々がお祀りしていた女神様だとわかったのです。しかし、何らかの理由で瀬織津姫は正式な倭の歴史から姿を消し去られたようなのです。『全国に「瀬織津姫」という祭神名で祀られている神社は約500社で、その中で鳥取県は26社と、数においては全国で3番目に多く残っています。1位の岩手県が36社、2位の静岡県が32社ですが、面積は岩手が鳥取の4倍以上、静岡が鳥取の2倍以上です。すると密度比較では鳥取県が断トツでナンバー1なのです。瀬織津姫を祀る神社の数と密度において、全国を見渡しても突出している鳥取県ですが、中でも因幡に集中しているのです。』(大江氏の考察より抜粋) 名前を変えられて(変えざるをえない理由で)祀られている神社はこの何倍にもなるでしょう。そして私都にはそのほかに、皇室と関わる「峰の薬師」があります。『 ここは皇族の血統以外で初めて天皇の后となった藤原不比等の娘、光明皇后と関わる寺院です。光明皇后の母君である縣犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)が、自分の娘を皇后にしようと誓願を立てて、その念願成就の後にこの私都に日本三大薬師の一つ、峰寺薬師を創建したのです。 奈良時代に、皇室とその親族以外の身分から天皇の后が入内する、これはそれ以前にはなかったことです。 そのタブーを破って藤原不比等と橘三千代は自分の娘を入内させようとしました。これは藤原氏が覇権を握るための大きな出来事です。そしてそれは皇室にとっても一つの歴史的転換点となります。この入内を成功させるために、橘三千代が誓願した三つのお寺の一つが、なんと下私都の峰寺(みねでら)にある峰寺薬師なのです。これが元で奈良法隆寺、三河鳳来山薬師寺と共に日本三大薬師と呼ばれているのです。ではなぜ、その一つがこの私都にあるのか、いままで全くの謎でした。 私都は天照大神の正后といわれる瀬織津姫(伊勢神宮内宮正宮の隣にある荒祭宮の祭神なので、天照大神とは並々ならぬ御縁がある祭神です。)を祀る神社が密集しているところであることから、私都は瀬織津姫と並々ならぬご縁を持っているところとして、おそらく古代の大和においても有名なところだったのでしょう。 橘三千代の娘を是が非でも天皇の后にするためには、天照大神のお后である瀬織津姫にご縁の深いところにも誓願寺を建てる必要があると思ったのでしょう。そうして橘三千代・藤原不比等はその宿願を果たすためにその薬師の寺を建立するのにふさわしい所として奈良の都から遠い瀬織津姫と縁の深い八上の私都を選んだものと思われます。 そうして実現したのが、聖武天皇の后、光明皇后です。これが私都に誓願寺、日本三大薬師の峰寺薬師が建立された理由と思われます。  このように八上の私都は古くは皇室やお后と密接な関係を有していた、と思われるのです。つまり瀬織津姫が記紀によって抹消される前、私都は中央からも意識される土地柄であったのです。』(大江氏の考察より抜粋)

瀬織津姫は名前のとおり水の神であり龍神様です。だから、罔象女神(みずはのめ:お瀧さん)、高龗神(たかおかみ)、闇龗神(くらおかみ)、市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと:弁天さん)などに名前を変えてお祀りされている事が多いことが調査の結果、明らかになりました。そこで、この私都川の清い流れの岸辺に片山神社を遷座したのではないかと思うのです。「えっ!なんで?どこからかって!? ……霊石山の中腹からです!!」 「なんで霊石山からになるかって!!??」「それはですね……」

それは次回【八上比売の謎 vol.3】で!! (*^▽^*)ノシシ(おっちー)

 

 

 

 

 

 

 

 


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